月夜の伝承

 

喉の奥に熱いしこりのようなものを感じ俺は慌ててその場に吐き出していた。
そいつは赤黒い肉の塊で子供の握りこぶしぐらいはあろうかというものだった。多分あまりにも苦しそうに吐き出したせいか、俺が治療していた老婆は驚いて嗄れ声で助けを呼んでいた。
でもおかげで、俺は安心してぶっ倒れることができた。
吐き出した瞬間、おおよその状況だけを飲み込んだ俺の意識は俺を離れてその辺りの湿った土壁に張り付こうとしていたからだ。
顔が柔らかくて黴臭い土にめりこみ、打ち所の悪かった鼻がひしゃげ、生暖かい血が呼吸を妨げていたが、俺の意識は暫く其れを眺め、駆け寄ってきた数人の女達が俺のからだを抱え起こし献身的な信者の一人が着物の袖で汚れた鼻を拭くのを見届けてから、やっと自分の身体に戻っていった。

まだ、少し通りが悪く、湿った血のニオイがする鼻孔に炊き込められた香が入り込んできて何処に寝かされているのかを俺に教えてくれた。
俺は本堂の堅い床に寝かされて居るのに違いなかった。
生臭いニオイが時々まざるのは、俺の吐き出した肉塊にまだ十分塩が染み込んでいないせいだと思った。

ゆっくり目を開けていい加減堅い床のせいで痛くなり始めていた後頭部と首を少しずらして身体を横に傾けるとそこにはさっきの信者がいて俺に何か言いたげに口をパクパクさせた。
彼女の袖でもう茶色いシミになった俺の血を眺めがら彼女のニオイを嗅いでいると北扉のジャンがならされた。
月神様がはいって来る知らせだ。
俺は慌ててからだを起こし、失礼のないように簡素にしつらえられた祭壇に向かって膝をついて頭を下げた。
そこには大きな丸い金属鏡が小石を積み上げた台座の上に据え付けてあり、その前には塩漬けの肉塊が置かれていた。そしてそこら中から吊るされている丸い香炉から微かな煙が真っすぐ糸のように高い天井に向かって立ち上っている。
北扉が開くとその空気圧の微妙な変化で数十本の煙の糸が一斉に同じ模様を書いた。

「もう、辛くはないか?」月神様は祭壇を背にしてこちらに向き直り、声をかけてくれた。いつもどおり余り鷹揚がなく感情が読みづらい声だったが俺は気づかってくれたことが嬉しくて体中が熱くなった。

「有り難い御言葉です。もう辛くはありません」

俺は声をだしながらそのあまりの違いに戸惑っていたが、できるだけ表面を平静に保とうとしたからなのか妙に一本調子になってしまうのを停めることはできなかった。(喉と口のなかが、異様に広くなっているような感じだ。声をだすとその広くなった喉と口のなかで反響しあい上手く音節を制御できなかった。)

「これで、おまえにも資格ができたことになる。おまえが吐き出したのは声に住着いている感情だ。」

「あと・・・」

 月神様は白い袖からすっかり干からびてツルのついた干しぶどうのようになっているものを取り出した。

「おまえも知っているだろうが、これはアジキの眼からこぼれた眼のもつ感情だ。」

 アジキの名前は俺の喉の奥に封じられた筈の感情をプスプスと炙った。

「以降、後一つの感情を先に切り離したものが、次の月神になって儂のあとを継ぐことになる。ヌルシも精進努力せねばならぬ。」

一瞬、月神様の干からびて乾いた眼窩の奥に慈愛の光らしきモノを見たような気がして俺は少しの間だが目が離せなかった。
だが勿論、在りえるはずの無いことだ。月神になるためには感情を封印しなければならない。
其れが外へこぼれるようでは骸郭禍はかなわないはずだった。かつての月神たちがそうであったように体腔圧縮し外界への通路となるためには個の象徴である感情は障害にしかなりえない。そのための修業で大勢の修行者が脱落していったはずだからだ。<祈りの洞>のなかにはそうやって体腔圧縮をなしえた過去の月神様たちの骸郭殻が安置され住民たちの願望を紡いでいた。いまの当主である月神様も後継者さえ決めることができれば体腔圧縮のために洞にはいれるはずだった。零れ脱落していった沢山の修行者たちのためにも俺は後戻りするわけにはいかなかった。

「ヌルシ、皆の期待に答えて欲しい。我らはあまりに長くこの地に居すぎた。この世界はあまりにも狭すぎるのだ」

月神様を送りだした後、俺は一人で境界壁のところにきていた。ここのところこれは俺の習慣になっている。

別になにがあるわけでもない。
わずか五里四方をかなり正確な正方形に外界から隔てているだけの腰の高さ位の低い台形の石積み壁が在るだけだ。
外界といっても静まり返った金色の砂が何処までも続くだけの殺風景なところだが、ここにいれば妙に心が落ち着くのだ。
普段、住民の治療と信者達の相手で一人になる時間が少ないせいかもしれない。目の前にはどこまでも続く砂の海が闇に向かって広がっていた。
確かに、その絶望的な広さはここの住民たちを孤立させ、無力化させるのには余りあるものに違いなかった。

次の日、俺は昨日俺が倒れてしまったことで中断していた老婆の治療に入っていた。
ここでは良くあることだが、老婆は祈りの洞に通いすぎある特定の骸郭殻にとらわれ、自己意識が曖昧なものになったしまったのだ。
彼女は自分が誰であるかを時々忘れてしまい、ここの住民たちには理解しえない習慣的行動を取るのだった。
おれは彼女がなにか他の誰かに成り代わるたびに踝を清めた砂で洗ってやり、耳からイキを吹き込んでここが何処であるかを教えてやらねばならなかった。
老婆は帰って来るたびに嘆き、呼び戻した俺を恨みがましく睨みつけたが仕方がなかった。
まだ期が及んでいない彼女に貴重な骸郭殻のひとつを塞がせるわけには行かないからだ。
だが昨日の今日で老婆の様子は随分違っていた。
信者達の手を借りていくら踝を洗っても、耳からイキを吹き込んでも老婆はこちらに帰ってこなかった。
自分の指を噛み、足を踏みならしあたりに清めの砂をまき散らした。そのうち遂に自分で立っていることもできなくなったらしく、昨日の俺のように頭から倒れ込んでしまった。
俺はそのあたりにいるだろう老婆の意識に語りかけようとしたがどういうわけか、どの土壁に張り付いているのかさえ解らない始末だった。
俺は自らの治療を諦め、月神様を呼んでもらった。こんなことは初めてだった。俺の感情は屈辱と敗北感に塗れ、耳の奥がグウゥと音を立てて唸っていた。
頭の中に隠れていた感情が暴れ始めようとしているのに違いなかった。

 

やがて信者達に伴われてやってきた月神様が老婆の意識を骸郭殻から引き離すための祈りを始めたが俺は朦朧とした意識と上がりすぎた体温で白濁し始めた眼で追いかけるだけだった。
暴れていた感情は出口を求めて俺の体中をはい回り、俺の意識を散漫なものにしようとしたが、ぎりぎり月神様の治療をみようとする意識のほうが勝りなんとか持ちこたえていた。
でも老婆の意識が戻ってきた瞬間安堵からか、聴覚がなくなり、そのまま俺の意識は混沌のなかに放り出されていた。

気がつくと体中の熱が下がっていて金色の広大な砂のなかに身体を半分埋めたような格好で横たわっていた。
なんの音も聞こえず、体中の神経が切れたように身動きひとつできなかった。
半開きになったままの口から細かい砂が静かに流れ込み、それが呼吸するたびに肺に送り込まれていった。
肺に貯まり始めた砂はそのまま血と混ざり合い心臓を通して体中におくられ、俺の手や足の血管を乾燥させる。
ムラがどの方向にあるのかさえ身動きひとつできない身体では見当のつけようもなかった。
ふいにアジキの名と月神様の乾いた眼窩を思い出した途端俺は猛烈な耳鳴りに襲われ、自分の耳が頭蓋に減り込んだ余分な器管であることをはっきりと認識した。
そいつはよそ者のくせに俺の脳に食い入ろうとして鋭角な形に変じて頭蓋を砕こうとしていた。
俺は残された意識を総動員してヤツを排除しようとしてもがき苦しみのたうちまわろうとした。

急に痛みが収まり身体が自由になっていた。
身体を起こしモヤがかかったようになった眼を意志を集中して元へ戻していく。俺はまた本堂に寝かされているようだった。
というのも本堂がすっかり様変わりしていて、今のいい加減な視覚ではちゃんと確認できなかったからだ。
俺の意識は不安定に俺のまわりをフラフラとさ迷い、一向に俺の身体に戻ろうとはしなかった。
そのうち不安定な意識は祭壇の前にたつ月神様を捉えていた。
月神様は祭壇に何やら糸屑のような肉片を捧げて祈りを一心に捧げているようだった。
俺の意識はそれと俺を見比べ、その糸屑のようなものは俺の耳の成れの果てであることを理解した。
月神様は何度もそれに砂をまぶし自分の耳にすりつけて呪文を唱えていた。
本堂の外には皆一様に耳を金色に塗った(それは砂を更に細かく砕き油でまぜたものだ)ムラ中の住民が押し寄せていて、一定の周期でなにか短い音節を叫んでいた。
だが、もうすでに音を捉えることの出来なくなった俺の耳には彼らの声は届きはしない。
彼らの一斉に動く口元に意識を凝らして観察してやっと、自分の名を呼んでいると解るまでには暫く時間がかかった。
俺は群衆のなかにアジキの姿を見つけた途端妙な俺さえ予期できなかった安堵感に捕らわれていた。
其れで俺の意識はようやくおちついたのかふらつくのをやめ、俺のからだのなかに潜り込むようにしてはいってきた。
資格ができたのだ。

おれは次代の月神様になれるのだ。
でも予想していたような感情はどこからも湧いてきそうになかった。
アジキのことも今となっては香炉から立ち上る香の煙より気にならない存在にすぎなかった。

次の日、俺が正式な継承者になったことで月神様は祈りの洞へ入る為の準備を始めねばならなかった。

彼はこれから塩と砂だけを摂って身体を骸郭禍していかねばならないのだ。この栄誉ある勤めと立ちあいは継承者である俺だけに許された仕事だ。
勿論同時に彼から月神様になるための全ての必要なことも学ばねばならない。
俺の仕事はむしろここから始まるのだ。
絶え間なく続く連続した夜のなかでこの作業は延々と途切れることなく続けられてきた。
頭上にいつも変わることなく浮かぶ青い美しい星は水があふれ、無数の生命がその営みを繰り返している。
だが、その星で死んだ生き物のうちの一部がここで再生し、無限の時間をさ迷うことになるのだ。
一体いつからこのムラができて、どうやってこの月神様という方法が見つかったのかは解らないが、ここに暮らしている人間があの青い星に帰るためにはこの骸郭殻を通る以外に如何なる道も存在しないのだった。
あの青い星に棲んでいたころの記憶をもったままここにやってきた人間はごく僅かだといわれているが、ここが月と呼ばれる場所だというところから月神という呼び名ができたということは聞いたことがある。
俺は先代の月神様のぽっかり開いた眼窩に塩と砂をまぜたものを塗りこめながらあの青い星に棲む生き物に思いをはせようとしたが暫くして思い止まった。
そう、なんの意味もないことだからだ。
俺は通路(媒体といったほうがいいかもしれない)になるために修業を積んできたからだ。
少なくとも今の俺にとってはアジキの干からびた目玉同様意味のないことなのだ。



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